飛行機の絵を描くことができる。
1人でトイレができる。
私たちは、日常生活において「できる」行動を無意識のうちに行なっていたり、見ていたりしています。
「できる」は、辞書的な意味で言えば
「いままでなかった物事がつくられて存在する」
「そうする能力や可能性がある」など、多岐にわたっています。
一般的な教育観として「できる」ことの積み重ねは、成功体験の積み重ねにもなり、
子どもの自信や自己肯定感の育ちにつながると言われています。
もちろん、この「できる」という述語は、その主体となる主語によっては、「できない」に変わる場面もありますが、「できない」よりも「できる」方がよい、こう考えるのが自然です。
しかし、例えば、子どもが日常生活や学校生活のさまざまな場面で集団行動ができない、微細運動ができないなど、そうした行動が見られたとき、
それらは教育観または障害観から問題である、と断定していいのでしょうか。
熊本大学の知久馬教授は、
「学校の教師には、簡単に子どもたちを『できる』『できない』と決めつける傾向があるように思われる。それも多くの場合、あたかも子どもの能力に本質的な欠陥があり、その欠陥を明らかにしているにすぎないとでも言いたげな様子である」
と指摘しています。
これは、特別支援教育においてもその「できる/できない」能力をめぐる問題が顕在化していると思います。
どんな子どもであっても、発達の可能性を有しているという信念や、教育(発達)によって獲得される「能力」の概念の再考は、聴覚障害教育でも求められると思います。
聴覚障害教育では、前述の「発達の可能性」や「教育によって獲得される能力」の視点に立った場合、
聞こえない子どもには、できるだけ早期から適切な対応を行い、音声言語をはじめその他多様なコミュニケーション手段を活用して、その可能性を最大限に伸ばすことが大切だと言われています。
そのために補聴器や人工内耳を早期から装用し、
音声の送受信によって言語発達の可能性を少しでも広げようとすることが教育の目標として挙げられています。
その音声の送受信が「できる」ことは確かに音声日本語を中心としている社会では、利便性が高いかもしれませんが、だからといって、子どもに「聞こえているね、偉いね」「発音がきれいだね。素晴らしい」と高評価を与えるろう学校教員は少ないと思います。
もちろん、評価という行為がなくても、聞こえや発音によって優劣がつくような場を設定することは、少なくともろう学校ではあってはいけないと思います。
音声の送受信とは別に、例えば先ほど述べた集団行動や微細運動については、
「みんなと一緒に鬼ごっこができたんだ。良かったね」
「折り紙で紙飛行機を作ったの?すごいね!」
と、肯定的な評価を与えることは大事なことだと思います。
では、反対に鬼ごっこができなかったり、紙飛行機を作ることができなかったりする子どもに対しては、
「〇〇ができなかった子ども」として見るのでしょうか。
鬼ごっこができなかったと断定するのではなく、
「恥ずかしいからかな?」
「ルールの説明がわかりにくかったのかな?」など、子どもの背景について想像を巡らせ、
環境設定の見直しや支援方法などの熟慮につなげていくことが大切ではないでしょうか。
子どもの「できる」「できない」を白黒で見るのではなく、
スペクトラム状の特性にあると捉えた上でかかわること、
それは教育者として子どもの言動に対して「できる/できない」を問わないような教育の模索にもなると思います。